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三淵嘉子の夫や息子や子供の家族まとめ!母親と父親と兄についても

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朝ドラ「虎に翼」で伊藤沙莉さん演じるヒロイン猪爪寅子のモデルは日本初の女性弁護士の三淵嘉子さんですがドラマを見ていると夫や息子など家族が気になると思います。三淵嘉子さんの夫や息子など子供や母親と父親のご両親、兄や姉弟などご家族についてご紹介します。

目次

三淵嘉子の母と父親と兄弟など家族【結婚前】

ドラマの寅子の生涯については、以下で詳しくご紹介しています。

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まずは三淵嘉子さんの結婚前のご家族についてご紹介しますが、その前に簡単に年表をまとめてみました!

三淵嘉子(1914~1984)の年表

1914年

三淵嘉子(旧姓武藤)さんは、エリート銀行員だった父親、貞雄さんの仕事の関係で、シンガポールで生まれました。

1916年

貞雄さんがニューヨーク転勤となり、生まれたばかりの長男とともに、母親のノブさんと3人で嘉子さんは帰国。

ノブさんの実家、香川県で暮らし始めます。

1920年

貞雄さんが海外勤務を終え帰国。家族そろって東京渋谷区で暮らし始め、嘉子さんはここで育ちました。

1932年

現在のお茶の水女子大付属高校を卒業し、明治大学専門部女子法科に第4期生として入学します。

1935年

明治大学法学部に編入。

1938年

明治大学法学部を卒調子、高等文官試験司法科に合格。このとき合格した3人の女性は、のちに日本で初の女性弁護士になります。

1941年

武藤家の書生だった和田芳夫さんと結婚。

1943年

長男の芳武さん誕生。

1944年

和田芳夫さんが戦争に召集され、明治大学専門部女子部法科の助教授になりました。

1945年

戦争が激化し福島県へ疎開し、その後両親が住む川崎に移住します。

1946年

和田芳夫さんが戦死。

1947年

明治大学専門部女子部法科の教授に就任します。

1949年

女性としては2人目となる、東京地裁民事部の判事補に採用されます。

1952年

名古屋地方裁判所で、女性初の判事に就任。

1956年

裁判官の三淵乾太郎さんと再婚。東京地裁判事に就任します。

1963年

東京家庭裁判所判事に就任。

1972年

女性初となる、新潟家庭裁判所で裁判所長に就任。その後浦和地裁や横浜家裁でも所長を歴任します。

1979年

定年退官し、翌年から日本婦人法律家協会の会長などを務めます。

1984年

骨肉腫のため69歳で永眠。およそ2000人もの参列者が訪れ、別れを偲びました。

嘉子さんの希望により遺骨は、三淵乾太郎さんのお墓と、和田芳夫さんのお墓に分骨されています。

夫だったお二人のことを、とても愛されていたのでしょうね。

では、まずは結婚前のご家族について詳しくご紹介していきます。

父親・武藤貞雄(1886年~1947年)

三淵嘉子さんの父親、貞雄さんは香川県丸亀市出身。代々丸亀藩の御側医を務めた、宮武家の二男として生まれ、丸亀の市会議員、武藤直言さんの養子になります。

直言!朝ドラ「虎に翼」寅子(伊藤沙莉)の父親は猪爪直言(岡部たかし)!ここから引用されていたんですね。

東京帝国大学法科大学卒業後、1913年から台湾銀行シンガポール支店に勤務。この少し前に、ノブさんとご結婚されています。

海外勤務、東京支店支配人などを務め、台湾銀行融資の企業で支配人などを歴任。

昭和興業合資会社を設立し、多くの企業の社長などを歴任されました。

ノブさんが脳溢血で亡くなった後、後を追うように肝硬変でお亡くなりになりました。

母親・武藤ノブ(1892年~1947年)

ノブさんは幼いころに父親を亡くし、子どもがいなかった裕福な叔父、武藤直言さんと駒子さんに育てられました。

家が裕福だったので女学校まで行かせてもらいましたが、とても厳しく躾けられたそうです。

嘉子さんたちには時に厳しく、時に優しく、愛情をかけて育てられたといいます。

朝ドラ「虎に翼」でも描かれましたが、嘉子さんが法律の道に進むと言ったとき、嫁の貰い手がなくなると、泣きながら猛反対したそうです。

終戦から2年後、長男や婿の戦死などの心労のため、脳溢血で亡くなりました。

弟(長男)・一郎(1916年~1944年)

横浜高等商業学校を卒業後、日立製作所に入社。その後出征し1944年、乗船中に米軍の魚雷により沈没し戦死。

妻と子がいたそうです。

弟(次男)・輝彦(1921年~2002年)

東京帝国大学文学部美学科卒業。花火師の輝彦さんは、煙火事故の補償などを目的とした、日本煙火協会設立のとき、専務理事に就任されました。

花火に関する著書もあり、1988年にはグランドキャニオンで打ち上げ花火をあげています。

弟(三男)・晟造(1923年~?)

詳しいことはわかりませんでしたが、医師だったようです。

弟(四男)・泰夫(1928年~?)

林野庁に長く務められたそうで、退職後も森林保護の活動を続けられました。

90歳のときでもお元気で、自転車で買い物にいくほどだったそうです。

現在もお元気なら96歳になられています。

武藤家

末っ子の泰夫さんのインタビュー記事によると、年の離れた姉、嘉子さんは何でもできる人で、優しく母のような存在。

そして長男の一郎さん。誰も自分に注意しなくても、行儀作法など一郎さんだけは注意するので、怖い存在だったそうです。

父親の貞雄さんは進歩的な考えのお方で、母親は優しい人物。

とても温かな家族だったそうです。

引用元 日本評論社 

朝ドラ「虎に翼」では、寅子は3人きょうだいとして描かれています。

5歳上の兄と、12歳下の兄という設定です。

三淵嘉子の夫は?再婚相手も

最初の夫・和田芳夫(?~1946年)

三淵嘉子さんの最初の結婚は1941年。嘉子さんが弁護士になられた翌年のことで、嘉子さんが27歳のころです。

和田芳夫さんは、嘉子さんの父親、貞雄さんの親友のいとこだったそうで、武藤家にお世話になりながら、仕事と明治大学の両方に通っていた好青年。

とても優しい人物で、感情豊かで明るい嘉子さんとは、とてもウマがあったそうです。

朝ドラ「虎に翼」では仲野太賀さんが演じている、佐田優三のモデルになります。

WIKIには「嘉子に見染められて」とあります。

結婚後は自宅を出て、池袋のアパートで新婚生活を送られました。

1943年に長男の芳武さんが誕生。1944年に嘉子さんの兄、一郎さんと同じころに召集令状が来ます。

一郎さんはそのまま出征し、戦死してしまいましたが、和田芳夫さんは肋膜炎の後遺症があり、出征を見送られます。

ですが終戦間際の翌年、肋膜炎の後遺症は認められず出征し、中国へと渡りました。

終戦間際にはこのように、根こそぎ戦争に連れていかれたのでしょうね (T_T)

和田芳夫さんは中国について、すぐに肋膜炎を再発。戦闘には参加することなく、上海の病院に入院します。

そのまま終戦を迎え、帰りの船で肋膜炎が重症化し、長崎の病院で危篤状態に。

危篤の知らせは、和田芳夫さんの四国の実家に届けられ、嘉子さんに知らせが届くのに時間がかかってしまいました。

嘉子さんは芳夫さんと再会できないまま、芳夫さんはこの世を去っています。

おふたりの結婚生活は短いものでしたが、嘉子さんは分骨して、和田芳夫さんのお墓にも入りたいと希望したので、とても愛されていたのでしょうね。

再婚相手・三淵乾太郎(1943年~1985年)

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三淵嘉子さんは1956年、41歳のころに裁判官の三淵乾太郎さんと再婚します。乾太郎さんはこのとき50歳でした。

おふたりの縁は乾太郎さんの父親で、初代最高裁判所長官を務められた、三淵忠彦さんがつなぎました。

結婚する8年前、嘉子さんは最高裁民事局で働いていて、ある日忠彦さんに呼ばれます。

嘉子さんの明治大学の恩師だった島田さんは、忠彦さんの友人で、島田さんから嘉子さんのことを聞き、会ってみたいと思われたそうです。

これをきっかけに、忠彦さんの民放本の改訂作業を手伝うようになり、ふたりは親交を深めていきました。

嘉子さんがアメリカに行っていた1950年に忠彦さんが亡くなり、帰国後すぐに忠彦さんの家に弔問に訪れた嘉子さん。

このとき乾太郎さんは、1年ほど前に奥様を病気で亡くし、4人の子どもがいました。

交流を続けるうちに、お互いに惹かれていったのでしょうね。忠彦さんがふたりを結びつけたのかもしれません。

嘉子さんが41歳、乾太郎さんが50歳のときに再婚されました。

乾太郎さんの長女は結婚していたので、実質にはここから6人での生活が始まります。

嘉子さんは子どもたちとは腹を割って話していて、衝突することもあったそうですが、夫婦関係はずっと良好だったといいます。

乾太郎さんは、嘉子さんが病死した1年後に、お亡くなりになりました。

三淵嘉子の息子など子供は?

和田芳夫との息子・和田芳武(1943年~2021年)

1950年、芳武さんが7歳のころ、嘉子さんはアメリカの家庭裁判所を学ぶメンバーに推薦され渡米。

このとき一緒に住んでいた、弟夫婦が芳武さんの面倒をみたそうです。

1952年に嘉子さんは名古屋に転勤となり、芳武さんと一緒に移り住みます。

1956年に東京地方裁判所に戻ることになり、この年に三淵乾太郎さんと再婚。芳武さんが13歳のころです。

三淵乾太郎さんの連れ子により、芳武さんは一気に4人の兄姉ができました。

その後芳武さんは寄生虫研究者となり、研究を続けられたそうで、2021年にお亡くなりになっています。

三淵乾太郎の長女・那珂

三淵乾太郎の次女・奈都

三淵乾太郎の三女・麻都

三淵乾太郎の長男・力

三淵乾太郎さんの連れ子については、詳細はわかりませんでした。

再婚したとき、長女の那珂さんはすでにご結婚されていて、家を出ていたそうです。

次女の奈都さんはこのとき21歳、三女の麻都さんは18歳、長男の力さんは14歳。

このとき芳武さんは13歳ころだったので、力さんとほぼ同年代でした。

まとめ

NHK連続テレビ小説「虎に翼」伊藤沙莉さんが演じている、ヒロインの猪爪寅子のモデルは、女性初の弁護士になられた三淵嘉子さんです。

今回は三淵嘉子さんの家族についてまとめました。

母親のノブさんは、幼い時に親を亡くし、子どものいない裕福な叔父夫婦に育てられます。

その家の養子となり、ノブさんと結婚したのが、嘉子さんの父親、貞雄さんです。

貞雄さんは台湾銀行のエリートで、嘉子さんはシンガポールで生まれます。

嘉子さんの下には4人の弟がいて、長男は戦死しましたが、それぞれ花火師や医師、林野庁の職員になりました。

最初の結婚は、実家に書生として出入りしていた和田芳夫さん。好青年でとても優しい人物だったといいます。

長男の芳武さんが誕生しますが、まもなく芳夫さんは出征し、戦地で発病し帰らぬ人に。

嘉子さんが41歳のとき、初代最高裁判所長官だった三淵忠彦さんの長男、三淵乾太郎さんと再婚します。

乾太郎さんは奥様を病気で亡くし、4人の子どもがいました。

5人の子どもの母親になった嘉子さん。芳武さんはのちに寄生虫研究者になられましたが、乾太郎さんの連れ子のその後については、わかりませんでした。

ドラマが進むにつれ、これから新しい情報が出てくることに期待します!

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